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昭和五十六年八月二十九日 朝の御理解
X御理解 第三十六節 日本国中のあらゆる神を皆信心するというがそれは余りの信心ぢゃ。人にものを頼むにも一人に任すとその人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば相談にくれてものごとはかどらず、大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つぢゃ、神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる。
信ずると所謂得たら信じ切るということが大切です。所謂、信心とは信ずる心とあります。だから信ずると決めたら信じ切ることです。自分の思うようになるといゃ、あらたかなかだとこう思うようにならなかったらもうその信ずる心が乱れてくるといったようなことでは信心にならん。一心と定めい。この方一心と定めたら私はただ都合の良いことだけが信心というようなものではなくて、云うならばどういう場合であっても、神様の働きに間違いなしと信じれるということが信心だと思うですね。
%1昨日は、竹葉会でございましたが。皆さんの素晴らしい、それこそ信心ですよね。信ずる心をいよいよ合楽に寄せていかれる模様をそれぞれ聞かせて頂きましたが。中に丁度一時過ぎまでここ、奉仕させて頂いておりましたが、下がろうとする前に日田、いや佐賀支部のくがさんが、支部員の方達のお届けを全部されまして、暫くしとりましたら、またここへ出てみえました。
%1そしてまた、それこそきちっと水引きの掛かった御初穂をここへ出されて、おかげを頂きまして有難うございますとこういう。その御初穂を見せて頂いたら息子さんが今大学に行っとりますが。建築の技師を目指しておるわけですけど、その試験が先だってありました、ね。丁度その時に佐賀の自宅の娘さんから電話が掛かって、健君と言うんですけども、の不合格の通知があったというのです。ですからその御初穂には、不合格御礼と書いてあった。おかげを頂きましてと言うのです。
%1どうでしょうか皆さん。お願いをしとりましたら、合格の通知が今ございました。そしてそこに改まったお礼をさして貰う。これなら誰でも分かるですけれどもね。不合格であったと、という連絡が只今ございましたが、どうぞお礼申し上げて下さいというお礼のお届けであった。
%1神様にそのことをお届けさして頂きましたら『御』という字を頂いた、ね。行にんべんにこう書いてある。御何々とこういうでしょう。御年玉というあの御です、ね。すべてのことを御の字をつけて御事柄として頂くという信心がそこに感じられるわけですね。
%1合格したことが、なら合格御礼だけれども、なら不合格はもうお願いしとったけれどもぢゃなくて、お取次ぎを頂いて試験を受けさせて頂いたら、只今不合格の通知がございました。そして不合格御礼。云うならば日頃頂いとる一切のことに御の字をつけてというような信心がそこに感じられますでしょう。
皆さんの場合ならどうでしょうか。私はね信心はこれはもう、もっと大変な、大きなことであろうが、どういうことであろうがね。この生き方で行く以外にはないです、金光様の御信心は。特に合楽で御信心の稽古をして合楽の信心によって徳を受けよう、力を受けようという信心。所謂、信心が楽しゅうなって、有難うなるというような信心は、ここを頂く、頂いてそして実験実証していく信心からしか生まれてこないです。
願えば願い通りのおかげになるといったようなものではない。そしたら神様からその『御の字のこの行にんべんの方を、こうやって消すところ』を頂いた。どげんなるですか。卸という字になります。卸小売りの卸という字になるでしょう、ね。
さすがにやっぱり信心はまだ若いです。若いですけれどもやっぱ佐賀支部の支部長としてです、人が助かるんです。変わった信心をなさる方で、方ですがね。
%2それこそ私共も長年こうして信心を頂いとって初めてですけれども、御神米の黒焼きち。あちらではね、この御神米を、この包装紙も一緒に、その黒焼きにされる。そして知った人毎しにその具合が悪い、どうというとこれをとにかく飲んでみなさいと言うてあげられる。御神米とも何んとも言わん。ところがそれが効くありあえちい効いたが何んの薬ですかと言われた時、初めてあれは金光様の御神米ですよと。そういう事から、あの支部員の方達。今沢山御信者が出けていっておるのはそんなことからです。
だから云うなら神様のそうしたおかげというか、信ずる力が強いわけですね。だんだんお話を頂けば頂くほど、今申しますようなね。右と願ったことが左になったり、左に願ったことが右になってもそれは神様のご都合だと。ここで頂くまたの御理解を頂くとです。願ったことが願った通りになるのは大したおかげぢゃない。
右と願えば左、左と願えば右といったような時こそ、神の願いが成就しておる時と仰る、ね。そして願いもしなかった、夢にも思わなかったといったような輝かしいおかげを頂いた時が本当なおかげだとこう仰る。
願い、人間の願いくらい願い通りのおかげて大したことはない。それこそ夢にも思わなかったというようなおかげを頂いて初めて、所謂本当なおかげだというふうに御教え下さっておりますがね。だからこの生き方でさえ行くなら絶対力も頂くでしょうし、また本当なおかげになってくるでしょうね。というてお話をさせて頂いたことでございましたが。
会がいよいよ始まって丁度、空閑さんが一番端に座っておられたから一番初めに発表をなさいました。その発表の中に、只今謂わば不合格の通知があったという話からです。今日こちらへ出がけに、今日はいよいよ健の試験発表でもあるから、そのことをお願いさせて頂いとりましたら、一三八という数字を頂いた。
まあ親の欲目からおかげ頂くなあと、一三といい、八という字といいこれはおかげ頂くなあというふうに実は思うておりました。所謂合格の通知が来るだろうと思うてました。ところが意に反して反対に不合格だったということを聞いた途端に、はあ神様の願いが成就しておるなあと思うたち。一三ということ、ね。そしてこれをこれで頂いて行きさえすれば広がりに広がるおかげに繋がっていくなあと思いましたからね。
はじめの間は親の欲目で出けておるだろうと、出けるというお知らせだなあと思うておりましたけれども、電話を聞いてね。不合格だったという通知を受けた途端にです。これが出掛けに頂いておった一三八だなあと思わせて頂いて心からお礼が申し上げる気になったという発表をしとられます。
私は合楽で有難いのはね。そういう働きがいつもあっておるということです。ですからあら、どうしてとこういうふうにまあいうならば後ろへたらっとこう一歩さがったような感じがせんでもないのですけれども、そういうようなおかげを頂いとりますから、後へよろよろとよろめくことがない。
神様の働きに間違いはない。そう信ずるところから、私は信心また、そういう信心から今日の御理解。所謂、一心と定めいと仰る一心に定めることが出ける。また定めとかなければそういうふうな働きも起こってこないと思う、ね。
金光様に一心におすがりしてお願いをしておかげを頂ききらぢあったら、また何々様もあるからとあちら迷い、こちら迷いするような信心では本当なことではないということなんです、ね。お互いが信心の道を迷わず失わず、そりこそ子にも孫にも伝えていきたい。金光様の信心するならおかげ頂く、ようご利益があるよというだけでは伝わらないと思う。
今も申しますように、右と願って左となるといったような時でも御神意に間違いはない。御神愛に間違いはないのだからね、お礼を申し上げる心の状態というものを作っていくような信心。そういう信心から、そりこそ夢にも思わなかったようなおかげというおかげがだんだん進展してくる。展開してくる、ね。そういう信心でなからなければ私は末の末までも伝わる信心の徳にも力にもならないと思うです、ね。
%3今ここへ座ららせて頂きましたら、誰か先生でしょう、電話がなんか掛かったんでしょう。「松村寿賀雄君が夜中に自転車で合楽に向かったようです。無事お参りが出来ますようにお願いいたします。三時三十分」と書いてある。松村さんところの、熊本の息子です。今中学生。親達の信心を受けて。やっぱり○少にずうっと出てきております。遠いところから、でいろいろお話を頂いてですそのそういう信心をまあ子供なりに、何かこう悩みがあったとか、何か願わねばならんような事があったんぢゃないでしょうか、ね。
%3または一つの、少しばかりの冒険心かもしれませんね。今正教先生がまだ熊本に、あちらへ居る時分に、中学時代だったでしょうか、高校時代だったでしょうか。熊本から歩いて参って来た。そういう例えば信心にでも取り組もうとするその姿勢が素晴らしいと私は思うんです。
ですから結局、親の信心がですね。伝わって、その親が頂こうとしている信心を自分も頂こうと意欲するところにそういう信心も試みてみようというような心が子供ながら起こってくるわけです。
%4所謂、親の信心が伝わっているしるしであるとこう思う。子供なりにそこにまあいうならば信心の思い出、本当若い時にはああいう事があったといったようなね。それが後々素晴らしい力になるです。椛目の妹のところに養子に頂いておる、今勝美先生がそうでした。大学の論文を書かなければならないという時に神様にお願いして、金光教の信心を書こうと思うた。それでここから出発して金光まで自転車参拝をさして頂いた。そして生まれてくる体験ひらめいて来たその事を論文の芯にしたいというのであったでしょう。
まあ二度と出来けることぢゃあないですけれどもね。そういうね信心のこの、構えとか姿勢とかというものがぽかっと出けるものぢああないです、ね。所謂、この神様の間違いなさというようなものを親が頂いて、その間違いなさをやはり自分も頂いてみたい、試してみたい。本気で神様にいっちょ向こうてみたい。そういう心が起きてくる。起せれる内容というものがね。いよいよいやが上にも神様を信ずる力というものを養のうていく手立てだとこう思います。
所謂、ただいきなりにむやみに信じなさい信じなさいと言われて信じれるものでもない。為には自分のやはり信心修行を第一とさしてもろうて始めて信ずる心が生まれてくる。教えを頂けば一通りは分かる。成程と。けどもそれを確かなものにするためにはですね。そうした修行の伴うた信心から、所謂力強い信が生まれてくる。所謂、信ずる心である。
そういう心が養われてくるからどんな場合であっても、どっこいとそれを受ける力、いやもう即神愛として受けれれる。云うならばお互いまあ小売りの信から卸売りの信にでもならせて頂く為にはね。そういう信を身に付けていきたい。始めてそこに一心と定めるね。もうこの方一心と腹もすわってくる、ね。
えらい熱心に参って来るごたる。この頃ちっとん参ってこんけんでと思いよったら。このころ何々様に蔵替してあるげなというような人があります、ね。そんな人はね、そこでもおかげは受けられんです、ね。やっぱり信ずる心というものは、いよいよどんな場合であってもそれを遂かせて貰う。云うなら信心の構えをね作って一心と定める信心を頂きたい。
今日は、私はその佐賀支部長であります空閑さんの昨日の発表の中からですね。不合格であった時にお礼が言えれるような心。そういう信心を身に付けて行きたい。神様はそれを小売りから卸売りの信心に認めて下さる。
成程一三八である。自分の願いが成就していない時にはむしろ神様の願いが成就しておる時であるとお礼が言えれるようなね、信心を頂きたいですね。
どうぞ信心の真をどこに現わすかというとね。おかげを頂いてこう真をどこに現わすというなら、こりゃ誰でもでけることであります。だから本当の真というのは、私共では分からない。けれども神様の働きに間違いはないと信じて現わす真こそ本当の真というのぢゃないでしょうかね。どうぞ。